他人の氣持ちがわかるか?

2018年3月11日より、14回にわけてFacebook投稿した記事に、一部編集を加えてまとめています。

 

東日本大震災

今日は東北震災の日。
ちょうど7年前に
未曾有の惨事が起きました。

その一日前にボクは仙台にいたのです。

東北震災があった地域は
ボクにとっては産まれ故郷でした。

前日に仙台にいたこともあって
他人ごとではなかったのです。

だから
居ても立っても居られなくて
民間のボランティアスタッフとして
3月23日に震災地の
宮城県南三陸町に入りました。

そこで目にしたのは
かつて経験したことのない
地獄の風景でした。

ボランティアとして
到着したのはベイサイドアリーナという巨大体育館。
そこに数々の大量の支援物資が届いていました。

外は雪が降っていました。
アリーナの扉は全開で
いつでも物資が運び込めるようになっていたのです。

つまり
屋内の気温も外氣とは
あまり変わらない温度。

生き残った人たちも
支援に行った人たちも
零下の温度で
何日も過ごすという
状態だったということです。

そして同じ空間の中に
数えきれないほどの
亡くなった方たちの
カラダもあったのです。

誰一人
笑うものはいません。
全てが氷ついた世界。
悪い夢ならはやく
さめて欲しい
と逃げたくなるような
現実でした。

今でも
ありありと覚えています。

☆ ☆ ☆

震災の津波が起きたのは
卒業式のシーズンでした。

突然の災害に
卒業式が中断されましたが
ほとんどの子供達は
高台にある学校にいたために
災害から免れました。

けれども親を津波で
失くしてしまった子供達も
たくさんいたのです。

この子供達の
卒業式にオブザーバーとして
出席させていただきました。

父兄からの挨拶
校長先生からの挨拶には
たいへんな災害にあって
みな苦しい思いをしていますが
この苦しみを乗り越えて
前を向いて生きていきましょう
というような内容の
言葉でした。

私が育った地元の
小学生たちは
とてもしっかりしていて
一人一人の名前を呼ばれては
「はい!」と大きな声で
答えて卒業証書を受けとって
いきました。

この毅然とした態度の
子供達を見ていた大人たちは
みな泣いていました。

いったいこの子供達は
どんな想いをして
この卒業式に
立っているのだろう?

生き残った者だけに
課せられた覚悟?
無残に崩壊した
この故郷の未来を
背負う氣持ち?

私も溢れる涙を
止めることができませんでした。

この極限の惨事の中にいて
この子供達の氣持ちを
感じると
涙が止まりませんでした。

同時に
この子供達に
だらしない大人だと
思われない大人でいなければ
ならないと固く誓いました。

☆ ☆ ☆

今回、新シリーズとして
《他人の氣持ちがわかるか?》
ということについて
考えてみたいと思います。

昔から私は
あなたは自分かってで
人の氣持ちがわからない
人だと言われてきました。

どうしたら
人の氣持ちがわかるように
なれるのだろうか?
と悩んできたのです。

そのことについて
自分なりに
お話をさせていただきたいと
思います。

みなさんも
何か思うことありましたら
意見など聞かせてくださいね。

 

 

空氣を読めない奴

近年流行った言葉で
《空氣を読めない奴》という言葉がありますね。

その場の
ムードや周りの人のことに配慮が欠けている
という意味で使われるようですが

一方この言葉は
他者を揶揄する時に使われていると感じます。

相手をバカにする
卑下して見下す時に
使われたりしてはいないでしょうか?

実は
あらゆる面で
相手の氣持ちを察するのは
とても難しいことではないか?
と思うのですね。

本来は人はみなそれぞれ
感じ方や考え方
判断の仕方が違うもの。

基本は
自分の価値観に従って
瞬間瞬間の判断で生きていると思います。

あまりにも
周囲の意識だけを意識しすぎると
どうしたらよいかわからなくなってしまう。

萎縮する。
自分の意見を言えなくなる。
黙りこくってしまう。
ということに
なってしまうこともあるでしょう。

相手の氣持ちを
感じ取りながら察して動く。

これは
人間関係においては
大切なことなのですが
それができなかったから
といって
必ずしも
非難して
なじってしまうのも
どうだろうか?
と思うのです。

自分かってな人は嫌われます。

けれども
そうなっている人にも
なぜそうなのか?
を理解してあげる
必要もあるかも
しれません。

私は
長い間
父が大嫌いでした。

いや、一時期は
憎んでいたとも言えます。

そうなる体験を
したからですが
今では父のことが
少しは理解できるように
なりました。

父はとても自分かってな人で
周囲の人を暴風雨のように
巻き混んで翻弄し
迷惑をかける人でした。

小学生の時に
私は父からDVを受けて育ちました。

なんども夜に
裸足で逃げました。
泣きながら
裸足のまま
外で隠れて
家に入らず
過ごしました。
あまりにもの暴力で
父に殺されると
感じたからです。

後から氣がついたのですが
私を殴ったり
タバコの火を押し付けたのは
それは単に父のストレス発散の
はけ口だったのです。

それを知ってから
父を憎むようになりました。

そんな父が脳梗塞で
倒れてからは
長男の私が
めんどうを見なければ
ならない状態になりました。

あれほど憎んでいた
父をなぜ私が一人で
めんどうをみなくては
ならないのか?

それがどうしても
理不尽なことに思え
嫌々ながらに
介護をしていました。
義務感で介護をしていたのです。

でもそれも
今では運命というか
自分の成長のために
仕組まれた
できごとだったのではないか?
と思います。

自分のことしか考えない父。
他人の氣持ちをわからない父。
そのような人物に自分や
母や弟や
周囲の人々が振り回され
たくさんの迷惑をかけた。

だから
他人の氣持ちを
わからない父を憎んできた。

でも、
程度の差は
あったとしても
父の血をひいた自分も
他人の氣持ちをわからない
というか
察することが
できていない
ところがある。

それが
ほんたうは
わかっていたから
そういう自分が嫌いで
父のようになるのが怖くて
父を憎んでいたのだと
思うのです。

でも、
それも
今ではすっかり
昇華することができました。

それは
神社に行って
神さまに祈ることを
真剣にするように
なってからです。

神道は宗教ではない。

日本という国の
根幹を成す
精神の礎であり
生活の仕方です。

神道は
祓いにはじまり
祓いに終わる
という程「禊祓い(みそぎはらい)」をします。

今朝も
起きてから
頭から冷水をかぶり
祝詞を唱え
一日のはじまりの祈りをしました。

毎日行うのは
私の周りの人々が
みな幸せであることを
祈ること。

天地彌榮塾生徒
一人ひとりの顔を
思い浮かべ
一人ひとりの名前を読み上げ
生徒がみな幸せに過ごせることを祈る。

そして
自分が背負っていた
罪穢れを
祓い落とし
自分の魂を輝かせ
自分が生まれた
使命を全うできるように
一日を精一杯
たのしんで生きること。

それを誓うための
祈りの儀式をします。

これを
繰り返しているうちに
様々なことに
氣づきだしたのです。

長くなりました。

他人の氣持ちを
感じられるように
なるには
どうしたら
できるようになるのか?

 

 

初任給を親のために使う

親子の氣持ちのすれ違い
を経験したことがある人は
多いのではないでしょうか?

この写真の本に書かれている
エピソードの中の一つを紹介します。

☆ ☆ ☆

新入社員の方々に
お話をさせていただく時には
いつも
「初任給だけは、親のために使おうね」
と、そんな話をしています。

これは、信用金庫に勤めている
みどりさんという女性が、
初任給をもらった時のお話です。
初任給は、お父さんとお母さんに
ホテルで晩ごはんを
ごちそうすることにしました。

食事をするホテルで、
両親を待っていると、
セメント工場で働いていて
いつもは作業服姿のお父さんが、
初めてブラザーを着てきてくれました。

嬉しい氣持ちで座席について、
メニューを見せながら
「お父さん、今日は、
初任給でごちそうするんだから、
好きなものを食べてね」と言うと、

「晩ごはん一回くらいじゃ、
18年分は取り返せないからな」
と言うのだそうです。

初任給でごちそうするというのに、
そんないじわるなことを
言うなんてひどい、
と若いお嬢さんには
お父さんの言葉を受け流すことができない。

できれば今すぐに帰りたいけど、
せっかくだから
我慢して食べるだけ食べて帰ろう、
となんとか思い直したのだそうです。

最初にビールが出てくると、
お父さんはみどりさんに
「おまえ、ビールくらい注いでくれないのか」
と言いました。

みどりさんはビールを注ぐのも腹が立って、
コップにあふれるほど注いでやれと、
憎らしく思った時に、
コップを持っている
お父さんの手がふと目に入りました。
それは手の筋目に
セメントの砂がめり込んだ
荒くれだった手でした。
綺麗に洗っても、
それでも落とせないセメントの
染み込んだ父のその手を見た瞬間、
「しかたない親父だな」
という思いでいっぱいだったけれど、
ふっとお父さんの話が
素直に聞けるようになりました。

そして食事を済ませて家に帰ってきました。
お風呂に入ろうとお父さんとお母さんが
いる居間の前を通ったら、
お母さんが一生懸命お父さんに、
「お父さん、今日はおいしかったね」と
何度も言っているのが聞こえます。

お母さんからしてみれば、
お父さんからみどりさんに
「ありがとう」と言わせたいのです。

すると「わかったような口を聞くな」
とお父さんが言いました。

本当にしょうがないお父さんだな、
とみどりさんがあきれていると、
お母さんが言い返しました。

「だってそうでしょう。
おいしかったって一言でも言ってやれば、
あの子もせいがあったのに。
何よ !
食事中もずっと腕組んで天井向いて、
何が面白いんだ、って顔して、
そんな態度ってないでしょう ! 」

「何も知らんとわかったこと言うな !
男の氣持ちなんてわからんやろ ! 」
と喧嘩が始まった。

これはたいへんなことになるな
とはらはらしていると、
お父さんがこう言ったのです。

「腕を組んで、天井向いていたのは、
下を向いたら、
涙が落ちてしまうからじゃないか。
お前らに、男の氣持ちがわかるか。
バカが。」

そう言った後、
ぽつんとお父さんが、
「俺も、今まであんなに
おいしいご飯食べたことがなかったな」
と言ったのだそうです。

それを聞いて、
みどりさんは
もうたまらなくなって、
自分の部屋に戻って
布団をかぶって泣きました。

☆ ☆ ☆

私たちは、
最初のみどりさんのように、
起こった出来事や、
言葉を自分の受け取り方を
することで、
知らず知らずの誤解を
しながら生きていることも
多いと思うのです。

実際に言葉や
現象として見えるものは
そのとおりのことだけれど
その裏に隠れている真意には
氣づかない。

そのズレに
氣がつかない限りは
やがて大きな破綻が起きます。

毎日一緒にいる
親子ですら
こういうズレが起きてきます。

私もそうでしたが、
血が繋がっていると
特にお互いに対する甘えの
ようなものも起きてしまって、
分かり合えるのが
当たり前のようにも思い、
自分の考えと違うところを
見つければみつけるほど、
相手を嫌になってしまう
傾向があるように思います。

似ているからこそ、
違いが許せない、
という感覚になるのでしょう。

また、
他人であった場合は、
初めは仲よかったはずなのに、
ある時、
この人は実は何も
私のことをわかっていなかったんだ、
と氣づいたとたんに、
180度変わってしまって、
とても相手を嫌いになって
しまうことも多いと思います。

これらは全て、
コミュニケーションギャップに
よるものと言っても良いでしょう。

みどりさんの
お父さんとお母さんの例では
もしかすると、この夫婦間では
こういう喧嘩が他にもしょっちゅう
あったのかもしれないですね。

口数少なくて上手く言えない父。
相手の欠点をつい非難してしまう母。

このズレは
コミュニケーションの技術を
上げることで
回避することもできるでしょう。

江戸時代なら
それでもよかったかもしれませんが
現代人ですから
お父さんはもう少し
日頃から「ありがとう」と
口にできるようになった方が
もっと幸せの度合いは広がると思います。

でも
もっと重要なのは
言葉の言い方や
態度ということもあるけれど

相手がどうだったかではなくて
全ては
自分自身のことなんです。

自分は
相手のことを
積極的に受け止めようとして
接しているか、
どうか?
なのです。

この、
みどりさんの事例でいうと
初任給は
親に感謝の氣持ちを表すために
親にごちそうしてあげよう
と思ったのですが
それは、
厳しいかもしれませんが
あえて言うならば
自分都合の
「ごちそうしてあげよう」
だったかもしれないのです。

もちろん、
形だけでも
そういうことをすることは
とても素晴らしいことです。

でも、
もっと上品(じょうぼん)
なのは、

いてもたってもいられないくらい
ご馳走してあげたくて
食べたら喜ぶだろうなぁ
という笑顔を想像して
食べていただくことなんです。

それは形だけの
「ごちそうする」から

心から差し出す
「食べていただきたい」
に変わっていることです。

これは
神仏に対する修行を続けていくと
自然にその違いがわかるし
その違いが
自分の心の中に生まれてきます。

みどりさんのことを
卑下しているのではありません。

でも、私を含め
ほとんどの人が
みどりさんのような
氣持ちのレベルで
いることが多いと思います。

みどりさんの
お父さんとお母さんのような
父母の関係もあるでしょうね。

今日の話を
読んでいる人の中には
思い当たる人も
いるのではないでしょうか?

 

 

父の話1

私の父の話をしましょう。

ここで書くのは
ごく一部のこと。
実際にはもっと
他人には想像もつかない
ほどの酷い話です(笑)

父は高度成長の波に乗って
事業でそこそこの成功をした人物でした。
地方ではそこそこお金持ちだったのです。

ところが、
あることで事業を失敗し
それからことごとく
仕事が上手くいかなくなります。

氣がつくと
約三億円の借金。

経営していた店舗も倒産し
家も手放さなくてはならなくなりました。

ある日突然母が
失踪しました。

その時
私はきっと母は
あまりにも辛くて
自殺をしたのだろう
と考えました。

母のことはとても
大切に思っていたので
そこまで追いやった
父を憎みました。

ところが
父は母を愛していました。
それは、
ほんたうのことだと思います。

でも、それは
父のかってな
「愛」であることも
私にはわかっていました。

父は母が出て行ったのは
「お金がなくなったからだ」と
考えていました。

だから、
お金を取り戻しさえすれば
母は戻って来ると考えていたのです。

そんなことをしても
母は帰ってこないよ
と、いくら父に言っても
わかりませんでした。

だから
私は長い間
「お金は一番大切なものではない」
と思っていました。

お金について誤解をしていたのです。

父は
どんどん落ちぶれて
最後には生きているのが
不思議なくらいの
みじめな生活の人になっていきました。

憎まれ口をいい
誰からも嫌われるような
人間に変わっていったのです。

私の当時の氣持ちを
正直にいうと
こんな恥さらしな人間は
この世から早く無くなって欲しい
と、ずっと思っていました。

そんな時
父が脳梗塞で倒れたと
病院から連絡があり
親族が立ち会わなければ
手術もきちんとできない
ということで
長男の私は仕事の要件も全て捨てて
父の介護に奔走することになったのです。

なんとか意識を取り戻してからは
病院の主治医の先生と喧嘩をし
なんども病院を変わります。

いわゆる手に負えない
性悪の患者で
受け入れの病院がなくなり
たらい回しになっていきます。

私と言えば
仕事を休み
交通費や
介護にかかる費用を
支払い続け
なんで俺は
こんな奴のために
ここまでのことを
しなくてはならないんだ
と、ほとほと嫌になっていきました。

病院に入院している間
父が当時住んでいた
お化け屋敷のような
家を片付けさせて欲しいと
入院中の父の承諾をとり
家の中にある
ゴミと化したものを
産廃業者を手配して
全て廃棄しました。

ゴミは
トラック2台分にもなりました。
廃棄費用の支払いだけでも
何十万円にもなりました。

おそろしいことに
何重にも重なっていた
衣類などの下に
ネズミの死骸が
何匹も見つかりました。

まさに
「妄執」の
お化けを見たような
吐き氣がする、
おぞましい
背筋が凍るような体験でした。

汚いとかいう
レベルを超えています。

吐き気がするほどの
「憎しみ」や
「妬み」や
「悲しみ」などが
混じった家だったのです。

その後に
ようやく見つけた医者の先生と
面談をした時に

「ここまで息子さんが
してくれて
いらっしゃるんですよ。

あなたは、
息子さんの氣持ちがわかりますか?」

と言いました。

すると父は
憮然とした表情で

「俺には息子の
氣持ちは全くわからない」

と言ったのです。

私は
泣きました。

悔しいのと
情けないのと。

あんたは
そこまで酷い人間だったのか。

と。

それが15年くらい前のことでしょうか。

でもその後
心理カウンセラーでもある
親友と話をしている時に
郷ちゃんのお父さんの話ってさ
アスペルガーじゃないかな?

と言われたのです。

当時「アスペルガー」という言葉すら
私は知りませんでした。

アスペルガーって
なんなんだ?
ということをそれから勉強するにつれ
父はアスペルガーだったのだ、
ということがようやくわかりました。

それで初めて
私は心の曇りがぱあっと晴れたのです。

父は
「ほんたうに他人の
氣持ちがわからない人」だった !!

でも、
それは人でなしではなくて
アスペルガーという
一種の病氣のせいでそうなっていたのだ。

そう氣がつくと
こんどは父の立場から
ものごとが見えるようになりました。

なんで自分は相手のことを
愛していると思っているのに
相手は自分をわかってくれないのだろうか?
ということの連続の人生
だったに違いありません。

本質に氣づくことなく
「?」の連続の中で生きていた。

誰からも理解されない
かわいそうな人だったのです。

人間関係をどうやったら
うまくつくれるかということを知らない。

ついには愛する妻にも捨てられ
親族からも捨てられ
息子からも疎まれる。

長い間、孤独だったのです。

その溝を埋めるのが
「お金」だったのでしょう。

美味しいものを食べさせてやれば
相手は喜ぶ。

高価なものを買ってやれば
相手は喜ぶ。

だからお金が必要だ。

今の私には
この父が考え違いをしてしまった
まちがいがよくわかります。

父の立場になって
ものごとを見て行った時に
はじめて自分との意識との
ギャップの原因が理解できたのです。

だから今こそ
「金運が上がるセミナー」を
しようと決めたのです。

お金の本質がわからない人には
いくらお金があっても
幸せになることはできないからです。

同時に一瞬多額のお金を
手に入れることができたとしても
お金の本質を理解していなければ
やがて私の父のようになってしまうからです。

「お金の本質とは何か?」
その正体がわからない限りは
お金は自分によりつきません。
一生お金が不足したままの人生となるでしょう。

この世の中で一番大切なのは
「愛」であって
「お金」ではない。

というのは、
大きなまちがいです。

「お金」とは
「愛」の別な形のものなんです。

そして
「お金の使い方」をまちがった人は
「愛」もやがて失うことになるのです。

そのことの意味を
正確に理解しなければ
本質的な幸せにすら
なれないでしょう。

お金のセミナーをするのは
私にとって
一つのチャレンジでもあります。

いよいよ最後の
本質の砦
本質の秘密に迫る話をするからです。

一度でも私の金運の話を聞いた人は
なぜ私がここまでの熱意をもって
伝えようとしているのか?
の謎が少しだけでも
わかったのではないかと思います。

まだ聞いていない人は
ぜひ一度聞いてもらいたいと思います。

 

 

父の話2

父を長い間憎みながら
けっきょくは
私も少し形は違うけれど
父と同じようになっていった。

11年前に
最愛の妻を失うことになり
それからは地獄へと
真っ逆さまに落ちました。

同時期に弟までもが
ほぼ同じような状態で
離婚をしました。

これは
ただならないことだと感じました。

郷右近(ごううこん)だけに
「業(ごう)が深い」と
笑い話のようにして話をしますが
実は、大真面目な話です。

仏教哲学では
六道輪廻やカルマを説きますが

まちがいなく私たち
郷右近家の人々は
罪穢れという「業(カルマ)」を
背負った人々なのだと思います。

だから根本を変えなければ
自分の本質をクリアーにすることは
できない。

そのことを思い
徹底的に学び
実践するしかない。

と感じました。

その結果
古神道に行き着いた
というのが実情なのです。

☆ ☆ ☆

いろいろやってもやっても
うまくいかない。

その時に泣きながら
神さまに祈りました。

今まで
いろいろなことを祈り
願ってきたけれど
全ての願いを捨てて
ただ一つだけ
願いを叶えてくれるなら
何を願うのか?

その時
出した結論は

「優しい人にしてください」

ということでした。

私は他者の氣持ちが
ちゃんとわかっていない。

他者の苦しみ
他者の悲しみ
他者の憎しみ
他者の怒り

それらの氣持ちを
ちゃんとわからないでいるから
こんな目にあっているのだ。

あんなに妻を愛していたのに
その結果
妻に私の愛は届かなかった。

それは
私が妻の氣持ちを
ちゃんとわかる
ことができなかったからだ。

それは憎んでいた
父と同じことである。

同じカルマを背負っているから
同じ過ちを繰り返すのだ。

私が思っていた
「愛」とは
自分かってな感情で
相手のことを想い
理解した上での
「愛」ではないんじゃないか。

だから
「他者の氣持ちがわかる人」
になりたい。

と思いました。

どうか神さま
私を優しい人にしてください。

他者の氣持ちが理解できて
他者の人に寄り添うことができるような
そういう人にしてください。

そう泣きながら
祈りました。

なんどもなんども
毎日毎日
そう祈り続けました。

優しい人になりたい

と紙に書いて
壁に貼りました。

お金が欲しい
ではなく
愛が欲しいでもなく
褒められたいでもなく

ただただ
優しい人にしてください。

そして、世界中が
優しい人であふれるようにしてください。

それが
「他者の氣持ちがわかる」
人であふれる世界ということです。

その氣持ちを
つきつめていった時に

「天地彌榮(あめつちいやさか)」
という言葉を知りました。

「天地彌榮」とは

天(宇宙・神)

地(地球・
人間だけではない
あらゆる生命)


共に一緒になり
栄えることです。

「天地彌榮」とは
隣にいる他者に対して
優しくなれることなんです。

それがやがて
神から認められ
他者から認められた時に
はじめて
自分を許すことができる。

自分にも優しくなれる。

そのことがわかったので
私は「天地彌榮塾」を始めました。

いや、
まだまだわかったふりをしているだけで
ちっともわかっていないことだらけです。

でも
その方向に向かって歩くことを
決意したのです。

歩いているうちに
もっともっと
何かがわかっていくはずです。

まだまだ
私は優しい人にはなれていません。

聖人君子にはほど遠い人物です。

自分では氣づかなくても
ずるいこともしている。

他者を傷つけることは
今だにある。

氣持ちをわかってやれていない
軽率な行動もまだしている。

でも
私は優しい人になりたい。

エライ人ではなくて
優しい人になりたい。

褒めてもらいたいからではなくて
優しい人になりたい。

だから
困っている人がいたら
助けられるようになりたい。

相談にのってあげられる人になりたい。

それでも私を
偽善者だとか
嘘つきだとか
言う人がいる。

とても悲しいことだけれども
それも受け止めなくてはいけない。

と、今では思います。

「愛」とは
「心」を
「受ける」ことだからです。

でも
正直なことを言うと
私でも傷つきます。

優しい人になりたい
と本氣で思っているのに
なぜ
嘘つきだとか
偽善者だとか
言われるのだろう??

それはなぜなのか?

まだ私の努力が足りないからなのか?

そのことについて
一つの答えが
ようやく見えてきたように
思います。

そのことを
いよいよ
伝えるべき人には
伝えなくてはならない。

そう思って
この投稿を書いています。

あなたが感じたことが
あったらなんでもけっこうです。

 

蝦夷征伐から続くDNA

私という人間はどこから来たのか?
そのことに、
ある時突然
鮮明に理解したことがあります。

それは仏道修行をしていた時でした。
25歳頃です。
仏様に向かって
何時間もお経を唱え続けていた時に
いきなりそれはやってきました。

私は父と母とのDNAによって生まれた。
それはもちろん当たり前のことですが
鮮明な映像が立体的になり
過去と現在と未来が
全て一体となったような感覚で
私は父と母とご先祖さまの
魂、縁につながっているのだ。
ということがもの凄い情報となって
飛び込んできたのです。
そこにはカルマのようなものも感じられました。

その時の感覚はうまく他者には
伝えきることができません。
超感覚とでもいうような体験だったからです。
一種のトランス状態のように
なっていたのかもしれません。

もちろんドラッグの類は
一切しておりませんが(笑)

その感覚だけはずっと忘れずにいました。

でもその感覚はしばらくなかったのです。

ところが今から9年前に
岩手県奥州市というところにある
胆沢城の跡地あたりに行った時
突然フラッシュのように情報が
頭に飛び込んできました。

そこは、縄文人の末裔であり
蝦夷地の長であるアテルイが
ヤマト軍と戦った戦場の跡地です。
今から1,200年前の話です。

坂上田村麿が
蝦夷征伐(えみしせいばつ)といって
中央の天皇軍に属しない者たちを
戦争によって降伏させる戦いがあった
ということです。

歴史の書物では、
蝦夷は、辺境の地に住む蛮族とされ、
天皇軍が正義の軍団の
ように書かれていますが
私の脳裏に浮かんだのは
全くそういうものではありませんでした。

東北に住む蝦夷、
ないしアイヌの人々は
争いもなく平和に暮らしていた人々です。

ところが、ある日突然
お前の領地を明け渡せと迫られ
私たちはここで平和に暮らしているから
あなたたちの命令は聞けない。
と断ったリーダーのアテルイは逆賊とされるのです。

アテルイは自分が守るべき
人々を守るために戦った。
その数、アテルイ軍は
10万人にも登ったと言われています。

当初、天皇軍はことごとく敗退します。
しかし田村麻呂の知略と戦略によってとうとう
蝦夷地は陥落します。

この時のアテルイ側にいたのが
私の母の祖先。
天皇側にいたのが私の父の祖先だったのです。

ちなみに「郷右近」という性は
元は「江右近」という名で
その後、源頼朝の家臣となった血族です。
その後の東北征伐の功績を認められ
後醍醐天皇から拝命されて
「江右近」から「郷右近」に変わりました。
「郷」とは「ふるさと」「いなか」
という意味があるものなのです。

それがはっきりとわかりました。

ロミオとジュリエットで言えば
モンタギュー家とキャピレット家。
もしロミオとジュリエットに息子がいたとしたら
それが私だ、ということです。

ものの見方によっては
中央側から見れば戦争で武勲を上げた
立役者となり
郷右近は英雄となります。

しかし滅ぼされた側から言えば
虐殺者に過ぎません。

蝦夷と天皇軍は、
まるで性質の違う人々でした。

価値観も判断の仕方も違う。

勝てば官軍。
天皇家は戦争に勝ち続けたから正規軍です。

でも負けた蝦夷やアイヌ、縄文人たちは
悪い人たちだったのでしょうか?

否。
そんなことはないのです。

ここに私が言いたいことがあります。

人間が今まで行なってきた戦争。
自分が正義であると主張する戦いには
「ほんたうの幸ひ」はありません。

そのことが、両社のDNAを受け継ぐ
私にはありありと見えるのです。

私は正しい。
と主張することに
ほんたうの意味なんてない。

あなたは悪い人だ。
と決めつけることにも意味はない。

昨日、仕事の関係で
2000年にインタビューをした
ダライ・ラマ14世猊下の映像を見ました。
次のようにダライ・ラマは語っています。

人類の戦争では
もう何も生まない。
これからは対話の時代である。
人類だけでなく、
あらゆる生命が
お互いに自分の利益を認め合い
相手の利益を受け止め合うことが
これからの地球という惑星に
必要なことなのだ。

そうすることができなければ
私たち人類に未来はない。

と。

地球規模の話をすると
あまりにもスケールが大きすぎて
目が遠いところを見てしまいますが
私たちの周囲だけを
見渡すことでよいのです。

自分を取り巻く人々が幸せであること。
お互いの氣持ちを理解し合い、
相手の言いたいことをきちんと
聞くこと。受け止めることです。

自分の言いたいことばかり
言うのではなく
相手の言いたいことを、
まず聞きとめるのです。

まずは、
その部分から
スタートをしなくてはならないでしょう。

そのことを教えているのが
「天地彌榮塾」です。

「ほんたうの幸ひ」とは何か?

ある意味でいうと
今まで自分が氣がつきもしなかった
他者の氣持ちに氣がついていくことなのです。

自分の愛を相手に
押し付けるのではなく
相手の氣持ちを理解し
どうして欲しいのか?
何をほんたうは望んでいたのか?
を聞き取り、
受け入れることで
自分の考えや行動を改めることをする。

それができれば
私も父も最愛の女性である
妻を失うことはなかったのです。

愛とは
相手の心
相手の想いや氣持ちを
理解し受け止めることなのです。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

写真は2015年に新橋演舞場で上演された「歌舞伎NEXT『阿弖流為』」をスクリーン上映する際のポスターです。
平安時代に実在した歴史上の人物、阿弖流為(アテルイ)を染五郎が演じました。染五郎めちゃくちゃカッコイイです。舞台は、02年「劇団☆新感線」の作品です。

 

 

中山靖雄先生

いよいよこのシリーズも
さらに深い話になっていきます。

このシリーズの3回目で紹介をした
伊勢の父こと・中山靖雄さんの著作から
また紹介します。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

私にもこんなことがありました。
昼と夜に講演があり、
ご飯を食べる時間がなかった日のことです。
バスに乗ろうと思ったら、
ちょうどバス停の前のお店で
巻き寿司を売っていたので、
それを買いました。
さすがにバスの中で食べるほどの
勇氣はなかったものですから、
タクシーに乗りました。

そこでタクシーの運転手さんに
「お寿司を食べさせてもらっていいですか?」
と聞くと
「やめてください」と言われたのです。

こんな返事は、
まったく想像していなくてびっくりしました。

「食べさせてください」と言ったら、
「どうぞ」と返ってくると思っていたのです。

しかし、運転手さんは、
「自家用車でもあるまいし、
勝手なことをなさらないでください」と、
おっしゃったんです。

すると、つい、
うわっ面の心が出てくるんですね。

「だまって食べても良かったのに、
食べさせてくださいってお願いしただけ、
いいじゃないか」
とか、

「よーし、運転手さんが
前を向いている間に
わからないように一切れづつ食べてやろう」
とか、
ふらちな思いが湧くわけなんです。

しばらくすると、
「あ ! 待て待て。
この冷房が効いた車内で寿司の匂いが残っていたら、
『この匂いは何?』と、
次に乗る方に言われるかもしれない。
そうしたら運転手さんも困るだろうなぁ」
と思えてきました。

「そうだったね。すみません。
自家用車じゃないのに、
中でご飯を食べるなんて申し訳なかったです。
ごめんなさい」

と言って、
慌ててお寿司を新聞紙に包んで
カバンに戻しました。

これは全国に講演で
「心豊かに生きる」という話を
して回っていた時の出来事なのです。

こういう出来事に出会うことで
「心豊かでないのは、お前じゃないか」
って身をもって知らせられるわけです。

このように、
自分を育てるために、
天がいろいろなお役目の
命と出会わせてくださる
「仕合わす世界」
「出会わしの世界」
があると思うのです。

どんな出会いも、
理由があって出会っているのです。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

この話を読んだ時
私は思わず
うーーむ。。
と、うなりました。

私はこういう氣持ちになれるだろうか?

素晴らしい人格者であると
言われている中山先生ですら
こういう、むっとする時がある。
その時はタクシーの運転手さんの
氣持ちなんてわからない。

でも、その後、
自分の行動の足りなかったことを
かえりみることができる。

これは今回お話してきている
「他人の氣持ちがわかるか?」という
テーマの問題としては
かなり上級なものだと思います。

まず、一言で
今日お伝えしたいことのポイントを
言いましょう。

「他人の氣持ちがわかる」
というのは、
かくも難しいことだ、
ということなのです。

シリーズ2回目に話した
《空氣を読めない奴》というのは
実は、こういうことです。

本来、
《空氣が読めない》
とか
《人の氣持ちをわからない》
というのは
とても難しいことなんだよ
ということを
前提とした方がよいのではないか?

また
《空氣が読めない》

《人の氣持ちをわからない》
というのは
別な意味をもったことなのだ
ということなんです。

と、私は思うのです。

ちょっとややこしいですが
丁寧にこの後の話を
読んでみてくださいね。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

ほとんどの人は
それができるのが当たり前で
できていない人を過剰になじる
ということをしてしまうことがある、
ということです。

例外におもえるのは
レストランなどのサービス業
もしくは夜の商売のホステスさんなどの
態度です。

他者の氣持ちを良くさせるための
心配りをすることが仕事なわけですから
そういう席においては
抜群の氣配りを発揮します。

実は私はある時期
銀座の高級バーの
雇われマスターをしていたことがあります。
座るだけでテーブルチャージが
一万円もとられる
「ぼったくりバー(笑)」のような
高級店です。
お酒を飲まない人だとしても
一人基本料が一万円かかる。
ウーロン茶を一杯飲んだら
11,000円です。
とんでもない店ですよね(笑)
こんな店にいったいどんなお客さまが
入店してくるんだろうか?
というのも楽しみで
働かせていただきました。

だから、
その時にいろいろなことを
経験させてもらいました。

私が勤めていたお店の
オーナーさんであるママさんは
カリスマの女性で
それはそれは鋭い人でした。

でも
ある時に氣がついたのです。

そのママさんですら
全てにおいて
《他人の氣持ちがわかる》
わけではない、ということに。

訓練された状況の中だから
それに対処することができていた
だけなのです。

カリスマのママさんでしたが
では彼女の人生が充分幸せだったか?
というと、残念ながら
ちょっと違っていたのです。

いいですか。

《空氣を読める》
というのは
ただのゲームです。

その場のシチュエーションに
慣れている人だけが
わかるゲームに過ぎないのです。

学校であった
イジメにも
似たようなものがありましたよね。
実は、あれと同じなんです。

ほんたうの意味で
《他人の氣持ちがわかる》
ようになるのは
もっと違う心のありようが
必要になってくるということなんです。

高級バーのカリスマママさんは
《空氣は読める》
けど、自分の人生においての
周囲にいる人に対しての
《他人の氣持ち》を
わかっていないことがある。

ということなんです。

だから彼女は
私生活では
ちっとも幸せではありませんでした。

今日紹介したエピソードの
中山靖雄さんは、
神道を実践することで
《他人の氣持ちがわかる》
ための訓練をしている方です。

神道ではなくて
仏道修行でもよいでしょう。

これは
とても不思議なことなのですが
神社や神棚に手を合わせていたり
「ありがとう」という言霊を
毎日なんども発するという
「行(ぎょう)」を繰り返して
行っていくと
なぜか、いろいろなことに
氣づくような出来事に遭遇していくのです。

いや
日々の出来事の中から
自分の感覚が鋭くなっていくために
今まで氣がつかなかった
他人の氣持ちに氣がついていくのですね。

今回の事例のタクシーの運転手さんとの
やりとりがまさにそういうことなんです。

でも
普通の人はそこまで氣がつかない。

客なんだから
お寿司食べたっていいじゃないか。

タクシーの運転手のくせに
氣が利かない奴だ。

最悪は
この運転手は態度が悪いから
タクシー会社に訴えてやる。

なんてことになるんです。

どうですか?

あなたには思い当たること
ありませんか?

この話はまだ明日も続きます。

でも、いよいよ
大詰めに近づいてきました。

あなたの意見など
よかったら聞かせてくださいね。

今日も1日
あなたが幸せを感じられる1日でありますように。

 

 

「意識」の話

このシリーズも
だいぶ大詰めになってきました。
毎回長い話につきあってくれて
ありがとうございます。

最終の結論まで後少しなのですが
誰でもわかるように話をするのは
少し難しいです。

全部で10回くらいに
まとめられるといいなぁ
と思って書き出しましたが、
これから話をすることは少々難しい。

だからこの後は
少しずつ細かく割って
話さないといけないですね。
なので後三回と思っていたけど
もう少し長くなりそうです。

これから話をするのは
「意識」の話なんです。

「意識」って何か?
ということでもあるのですが
科学的にとらえると
「周波数」として置き換えて
理解することができます。

「波動」という言葉もありますが
「波動」って何だ?
ということへの理解もできます。

この話は「量子物理学」の領域になります。

「量子物理学」というのは
現代科学の中の最先端の分野です。
アインシュタインの相対性理論の
次の段階の次元の理論解明に入っていて
今では宇宙の謎を探る予算を使って
この領域の科学実験がなされています。

莫大な費用を使って科学実験をすることで
アメリカのNASAが有名ですが、
すでにこの予算は削られてきていて
この「意識」「次元」領域を解明するために
予算が使われるようになってきています。

スイスの山奥の地下に
「LHC」という山手線に匹敵する
巨大な実験施設が
建設されてすでに研究が進んでいるんです。

科学的な理論検証はさておいて
超かんたんに話をしましょう。

意識を向けると
物体を構成する
「素粒子」は
変化するのだ。
ということが
科学的に証明されたのです。

変化ってどういうことかというと
形をもった物質でも
場合によっては
「消える」ことがある。
ということでもあります。

約5000億円の費用をかけた
スイスの実験「LHC」で
それが証明されてしまいました。

つまり
乱暴な言い方をすると
祈るとそれが作用して
現実世界が変わる
ということが明らかに
世界最先端科学の中で
証明されてしまった
ということです。

宗教でも
オカルトでもなく
世界最先端科学で
「祈ることでものごとが変わる」
ということを実証してしまった。

病氣が治ることを祈ると
病氣が治る。

お金が欲しいと祈ると
お金がたくさん手元にくる。

こういうことを
意識のコントロール方法が
わかればできてしまう
ということです。

サイババは
何もない空間から
金の指輪を取り出してみせる
といいます。

実際、
私の師匠の
青木宏之先生は
サイババにあった時に
目の前でそれをされて
指輪をもらって帰ってきた
と証言しています。

「引き寄せの法則」
という言葉がありますが
このことも、
なぜ引き寄せるのか
というメカニズムが量子物理学によって
証明されてしまったということです。

それは
「同じ意識をもったもの
同士は引き寄せ合う」
ということなんです。

意識が違う人は
その意識が
どういう意味であるかが
わからないから
関心も興味もない。

ということです。

今回のテーマである
「他人の氣持ちがわかるか?」
ということでいうと
「他人の氣持ちがわからない人」は
誰からも遠ざかってしまう
ということでもあります。

そんなのあたりまえじゃん。
といえばそうなんですが
これが実は
お金にもあてはまります。

最近私が行っている
「金運アップセミナー」では
そのことを証明しようとして
行っているものなんですね。

お金がほしいのであれば
それにどう意識を向ければ
お金が入ってくるのか?
が、はっきりとわかった、
ということです。

前回は35名の定員が満席でした。

今週の金曜日にまたあります。
若干席が残っていますから
興味のある人はぜひいらしてください。
一回出たことがある人は
今回は全く違う話をしますので
二度目でも三度目でも楽しめると思います。

話が少々脱線しました。

科学というのはどういうものか?
というと
ものごとがなんでそうなっているのか?
ということを理論的にも解明し
誰でもそれが
再現できるようにするものです。

長くなるので
今日はその導入の部分だけですが

「意識とは周波数」
として置き換えることができる。
ということです。

周波数をコントロールするためには
瞑想という修行を極めることによって
可能になる。

または
神仏に祈ることで
実現することができる。

というのが一つの結論です。

なぜなら
瞑想をすることで
脳波の周波数がどう変化するかが
はっきりと解明されているからです。

 

 

意識を合わせるとハーモニーになる

他人の氣持ちがわかることは
とても難しいことなのだ
ということをお話ししました。

では他人の意識を理解するためには
どうしたらよいのか?

その前に、
そもそも
「意識」ってなんなのだ?
ということを科学的に考えてみようと
アプローチをしました。

量子力学では
この世にある全てのものは
「素粒子」でできている
と結論づけました。

そしてこの
「素粒子」は振動をしています。

振動していることを
細かく分けて考えると
大きくは「電磁波」といいます。

実は
電磁波というのは、
電子レンジなどだけが
発するものではなく
光も含めて
全てのものが含まれます。

「電氣的な振動」は
「+(プラス)」と
「−(マイナス)」で表され

「磁氣的な振動」は
「S(エス)」と
「N(エヌ)」で表され

これを総称して
「電磁波」といいます。

別名「フォトン」
とはこのことです。

で、
この電磁波を
電波と呼ばれているもので
比較すると

「AMラジオ」
「無線」
「FM」
「TV」
「衛星放送」

という周波数に分かれます。
ちなみに携帯電話の周波数も
この中の一つです。

一方
光線の視点でみると

「赤外線」
「可視光線」
「紫外線」
「X線」
「γ(ガンマ)線」

というように周波数の違いで
分類することができます。

では意識とは
どこに属するのか?
というと、

もっとも振動数の高いもの。
「ガンマ線」を超えるほどの
高い周波数の振動が
意識であると
最先端科学では
理論づけました。

私たちの目には見えないけど
ラジオの電波は
空中を飛んでいます。
携帯電話の電波も飛んでいます。

これと同じように
私たちの意識も
空中を飛んでいるのです。

ラジオの機械(チューナー)を使って
ラジオ放送を聞くためには
周波数を合わせれば良いことは
誰でも知ってますね。

それと同じで
私たちの意識は同じ
周波数の意識と同調します。

これを
「引き寄せの法則」といいます。

一番わかりやすいのは
「言葉」です。

これを古神道では
「言霊」と呼びます。

言葉、言霊には
同じ意識のものを引き付け合う
作用が起きるのです。

一番わかりやすいのは
「ありがとう」という言葉です。

「ありがとう」という言葉を
常に発している人は
「ありがとう」という意識が
とても好きだという人を
引きつけます。

一方、
「バカやろう !」
「サイテー」
という言葉を常に発している人は
そういう悪感情の人たちを
引き寄せます。

これは科学的に考えても
ごくあたりまえのことなんです。

では、
ここからが
重要な話です。

「他人の氣持ちがわかる」
人というのは
いったいどういう人なんでしょう?

それは、
チューナーで言えば
あらゆる種類の周波数も
瞬時にキャッチできる人
だということなんです。

つまり
自分のチューナーの中に
違う周波数を
キャッチできない人は
いくら努力しても
違う周波数のことは
見えも聞こえもしない
ということなのです。

事例を変えて
考えましょう。

音楽に詳しい人は
すぐにわかるでしょうが

ドレミファソラシド
というのは
すべて異なる振動でできています。

この振動音の中で
「ド」の音を鳴らした時
イチオクターブ高い
「ド」は一緒に共鳴しますが
「レ」や「ミ」は鳴りません。

きれいな音楽の音に
「和音」というものがありますよね。
これはなぜきれいかというと
異なる音階がきれいに融合して
また新しい音として聞こえるからです。

他人の氣持ちがわかる人
というのは
他の音階と合わせることができる人
と言い換えることもできます。

逆に
他人の氣持ちがわからない人は
和音にならない人のことなんです。

自分の狭い意識領域に
止まったままの人である
ということも言えます。

性格や性質には
人それぞれのものがあります。

食べ物の好みや
音楽の好みなど
人には好きな傾向や
慣れ親しんだ傾向というものがあります。

けれども食べ物で考えた場合
様々な味のバリエーションを
たのしんで味わえた方が
料理や食事がよりいっそう
楽しむことができるし
人生が豊かになるでしょう。

ワインのソムリエは
ワインのティスティングをする時
一杯のワインの中に
実に様々な香りや感触を見出します。

なぜそんなことができるかというと
豊富な経験と
繊細な分析力を身につけることで
かなり微細な差を
みつけることができるからです。

実は人生も同じなのです。

他人の氣持ちを
わかるようになるには
楽しい経験を
たくさん積むことも
大切ですが
実は
「辛い」
「苦しい」経験を
数多く経験することで
他者の「辛さ」や「苦しさ」も
理解ができるようになります。

ほんたうは
辛い思いや苦しい思いなんて
経験しなくてもよいよ
と思うのですが
どうも先人たちの話を聞くと
ほとんどの成功者は
「辛さ」「苦しさ」「悲しさ」
「憎しみ」「嫉妬」
という悪感情のようなものを
自ら経験し、
さらにそれを知った上で
「許す」という心境に至ることで
「他者の氣持ち」が
理解できるようになるようです。

とはいっても
みな聖人君子に
なるわけではないので
そんなことは
なかなか難しいかもしれませんね。

私は
今までの自分の人生の中で
よくもまぁ
こんな過酷なことを
経験してきたよな
と思うほど経験豊富です(笑)

親友の心理カウンセラーにいわせると
郷ちゃんのような経験をしたら
普通三回くらいは死んでるね。
と言います。

実際に自殺未遂を
何度か経験しましたけど(笑)

でも一番苦しいのは
自殺をしてはダメだと
わかった後に
死にたくなるほどの
絶望を味わった時です。

いっそ死んでしまった方が
どんなに楽か
と思いながら生きなくてはならない。

これはかなりキツイです。

だから
今私は困った人の
相談ごとを受ける仕事を
したりしているんですね。

この話はまた明日も続きます。

あなたの感想や
自分の体験などありましたら
コメントしてくれたら嬉しいです。

今日も一日、あなたが
幸せを感じられる一日でありますように。

 

感じることが重要

どうやったら他人の氣持ちが
わかるようになることができるのだろう?

このことは
なかなか他人の氣持ちが
わからなかった
私にとって大きな問題でした。

そして今では
わかるようになるための
方法が少し理解できかけています。

まだ充分にわかっていませんから
「わかった」というには
早いと思っています。

「わかった」といえるのは
ある意味
「悟った」ということなのだろう
とも思うのです。

仏道修行では
「仏の叡智」に達する境地を
「さとり(悟り・覚り)」といいます。
ニルバーナ(涅槃)というのがこのことです。

ちなみに、仏教哲学、
先端科学の量子物理学の立場からいう
「科学仏教」では
「悟り」と「覚り」とは
全く違うという定義がされています。

このことはいずれ後で
解説をしましょう。

わかりやすい話にもどします。

考えるのではなくて
感じることが重要だということです。

「考える」というのは
「思考すること」で
頭(脳)で判断をしようとすることです。

ブルース・リーは
「燃えよドラゴン」という映画の中で
「考えるな、感じろ」
と言いました。

「機動戦士ガンダム」の中で
初代ニュータイプのアムロは
ガンダムを操縦する時に
自分の感覚に
マシーンであるガンダムが
スピードに追いつかないことに
苛立ちました。

「考える」ことは
「感じる」ことと
反応スピードが全く違うのです。

また
「考える」と
まちがった判断をしてしまうことすら
あるということです。

実は
他人の氣持ちがわかるか?
という問題を解決するためには
考えていたのでは遅いのです。

他人の氣持ちがわからない
こどもに親が
もっと他人の氣持ちを考えなさい
と怒ることがありますが
これはまちがっています。

考えてもわからない
ことだからなんです。

このことを
親自身がよくわかっていない。

考えるのではなく
感じる教育を
おろそかにしているのです。

感じる
というのは

瞬時に
その時その時の
一瞬の判断
直感が全ての鍵になります。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

私は以前
養老孟司先生と
一緒に仕事をしたことがあります。
一年がかりで
「脳迷宮」という
ヴァーチャルリアリティの
コンテンツ作品のシナリオを書き
その作品をプロデュースする仕事をしたのです。

その時に養老先生に
一年をかけて監修をしていただきました。

その時に
先生の著作である
「唯脳論」という本を読んだのですが
はっきり言って
ちんぷんかんぷんでした。
日本語で書いているのに
ちっとも意味が
頭の中に入っていかない。

養老先生に会う前に
この本の意味がわからなければ
先生ときちんと話ができない
と思い
私はがんばって
この本を五回読んでから
会いに行きました。

でもよくわからなかったので
先生に質問をしました。

先生の本を読んだのですが
けっきょくよくわかりませんでした。
脳のことをかんたんに理解するためには
どう理解すればよろしいでしょうか?

まぁ
すっとぽけた質問です(笑)

すると先生から
逆にいくつか質問がありました。

こいつは
ちゃんと俺の本を読んできたのか?
ということを確認するための
質問でした。

きたな〜
と内心思いました。
それらのいくつかの質問に
答えたことを確認した上で

よくわかってるじゃないか。

でも、質問に答えよう

脳のことを理解するためには
脳をコンピューターだと思うといい。

コンピューターの
ハードディスクがあっても
ディスプレイやキーボードがなければ
ハードディスクの中身はわからない。

人間の身体にたとえれば
脳は頭の中に入っている。
でも頭を切り離したら
もう人間じゃなくなる。

手や足や胴体があって
はじめて一体で人間になる。
一番大切なのは
手や足がなくてもいいけど
腹がなければおしまいだな。

脳が考えなくても
肉体の中(腸など)に
実は判断する領域が
あるんだよ。

脳で考えなくても
実はとっさの判断は
身体がしている。

脳が一番
人間の肉体の中で
かしこいと思っていたら
大間違いなんだよ。

なぜ
スポーツなどの
究極に肉体を使ったものに
関心が寄せられるかというと
そこには
脳の働きを超えた
不思議な機能があるからだ。

これは
自然との関係でもあるんだ。

ちなみに
現代社会の問題点は
大地をコンクリートで
おおってしまったことだ。

本来、
生命体が生きる上で
もっとも大切な
大地のエネルギーを
コンクリートという人工物で
遮断してしまった。

これが近代の人類の
最大の過ちだよ。

これは僕から言わせると
脳がコンクリートで
大地を覆わせたのさ。

近代人類の過ちは
都市が脳化しているといえる。
考える脳というものによって
支配されてしまった状態なんだよ。

本来もっと人類が
進化することを望むなら
自然との関係をやり直すことだろうね。

この養老先生から教えられたのは
今から17年前のことです。

このことが
私の中で大きなヒントになりました。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

話を元にもどします。

他人の氣持ちをわかるためには
頭で考えるのではなく
身体で感じることである。

と言い換えることができる。
と、今の私は理解しています。

今、私は
天地彌榮塾という学校で
神道のことを教えていますが
神道で重要なのは
神と一体となること
自然と一体となること
とも言えます。

神道は
「神の道」でもあるのですが
「道」とは何か?
というと

「柔道」
「剣道」
「茶道」
「華道」
「芸道」
というように
「道」というものが
名前についてるものの
全ての共通点は
「かた」があることなのです。

この「かた」というものは
「かたち」のことですが
何度もなんども
同じ動作を繰り返し
身体で覚えることをいいます。

頭で考える前に
身体が動く。

そうなるための
訓練をすることなのです。

また同時に
自然と調和をしていくことに
重要なカギがあることも
「道」の中では教わっていきます。

少し長くなりました。

今日のポイントをおさらいした上で
次の段階の解説をします。

他人の氣持ちをわかるようになるためには

頭で考えるのではなく
直感で判断できるようになること。

直感を磨く
ということが大切なのですが
そのためには身体で感じる
ことが重要であるということです。

では身体で感じるためには
どうする必要があるのか?
というと
自然と共にあること
身体の感覚を磨くために
徹底して「かた」を
身体に覚えさせることでもあるのです。

これは
私が青木宏之先生から
学んでいることの一つでもあります。

自然との一体化
身体の鍛錬

ヨガや
瞑想をすること。

これは
直感を磨き
自然
宇宙と
意識を一体に
するためなのです。

この話は明日に続きます。

ちょっと難しい話に
なってきましたか?

あなたの理解や
感じたことなど
コメントしてくれたら嬉しいです。

今日も一日あなたが
幸せを感じることができる
一日でありますように。

 

「直感力」とは何か?

他人の氣持ちが
わかるようになるためには
直感力が必要だ
という話をしました。

その前に
まずは「直感力」とは何か?
ということについて
整理してみましょう。

一般に「直感」と呼ばれているものは
細くは「直観」と「直感」という
二つに分けることができます。
似てるけど違いがあるのです。

「直観」とは経験による
無意識の判断をいいます。
「ひらめき」ともいいますが
実はたくさんの
経験を積むことによって
意識下にある思考が働き
瞬時に判断する
脳の働きをいいます。

脳科学的にいうと
直観は大脳皮質の活動
(思考や推理、運動の指令など)
ということです。

瞬時の早いスピードで
判断がなされるので
一見考えていないようにも
感じられますが
実は脳が考えているために
起きるものです。

「推理」というものは
この働きでおきるものです。

この「直観力」に必要なのは
経験なのです。
一番優れた働きを積むのは
本をたくさん読むことである
と言われています。
いかに多くの論理把握が
できるかどうかが
勝負の世界です。

私はプロのプランナー
プロの企画コンサルタントという
仕事をしていますが
今まで読んだ本は
一万冊に少しかけるくらいだと思います。

普通の人と比較すると
本を読むということに関しては
桁が違うのです。

圧倒的に知識の上での
経験値が違いますから
コンサルティングができるのです。

クライアントと話をしていて
あ、これは違うな
ということの微妙な「差」を
見分けることができます。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

ではもう一つの
「直感」とは何か?
というと、
脳科学的に分類するならば
「直感」は大脳基底核の活動
(運動の制御など)
と言えます。

これは
スポーツや武道で
鍛錬されます。

肉体を使って
たくさんの
反復練習を重ねることで
頭で考えるのではなくて
かってに身体が覚え
判断する領域のものです。

いわゆる「道」と呼ばれるものは
すべてこの特徴をもっています。

実は「神道」もこの一種に入ります。
神社に行って参拝をするのも
実は、たくさんの実践をすることで
効果が高まるんです。

ただし、この場合必要なのは
きちんとした「かた」を学んだ上で
その「かた」にのっとって
実践しなければあまり効果は
出てこないということなんです。

神社に行って
願いを叶えたいのなら
本来は正式な参拝方法を
身につけて行った方が
善いと思います。

もうひとつ
「直感」を理解する上で
重要なことがあります。

「直感は感覚的に物事を感じ取る」こと。
いわゆる「勘」という意味合いです。

こっちの方が
一般的に「直感力」というと
意識されているものですね。

なんだか説明できないけれど
なんとなく虫の知らせがあった。

いや〜な予感がした。

これ、いいかも !!
運命の人かも !?

というのは「勘」ですよね。

でも、
この「勘」って当たったりする。

女性にはこういう感覚が
鋭い人が多いと思います。

スピリチュアルに興味のある人は
こういう感覚を大切にします。

でもその感覚だけに
頼りすぎた時に
落ち入る危険性もあります。

今感じている「勘」そのものが
ほんたうにあっているのか
どうかがわからなくなったり
することがあるからです。

これ、いいかも !!
と思っていたのが
あとから、違ったー。
ということになる
経験もたくさんあるでしょう。

この勘だけで
生きているとあやふやなんです。

ここで
今までのことをおさらいしてみましょう。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

• 直観は、論理的に説明ができる。
• 直感は、論理的に説明ができない。

• 直観は、速いスピードで頭に浮かぶ。
• 直感は、意識にも上がってこない。

• 直観は、経験や記憶から意識的に処理される。
• 直感は、経験や記憶から無意識に処理される。

このような違いがあることが
わかりましたね。

結論からいいましょう。

この「直観」と「直感」の
両方の感覚を磨くことが
他人の考えをわかるために
有効であるということなんです。

言い換えれば
自分の人生をより豊かに
「ほんたうの幸ひ」に
なっていくためには
この両者の感覚を磨いていくと
いいよ
ということもいえると思います。

ではこの「直観力」と「直感力」の
二つを同時にを磨くためには
どうしたらよいのでしょうか?

そのためには二つの
有効な方法があります。

一つは
「自然の豊かさを充分に味わうこと」
です。
特に
「パワースポット」
「エネルギースポット」と言われる
場所に出かけていって
その空気感を味わってくること。
もう一つは旬の食べ物を味わっていただくこと。
これによってセンサーを磨くことができます。

だから私は
時々旬の野菜やお魚などを
感謝していただくとで
たのしみながら
感覚を磨いているんです。

もう一つは
「創作性の高い芸術に触れること」
なんです。
これは自然に対して
人間が創り出した最高のものといえます。
ある意味でいうと人間が神と近づいて
そのエネルギーをキャッチした時に
優れた芸術は生まれると
言い換えることもできるでしょう。

創作性の高い芸術とは
絵画
彫刻
音楽
舞踏
などが代表的ですが
総合芸術としては
空間を伴ったものが
優れています。

ヨーロッパの文化などでは
オペラがその最高峰の一つですね。

でも、オペラは
体験する費用も高いし
読み解く能力である
リテラシーも必要になる。

だから
お金もあまりかからなくて
氣軽に行ける
質の高い神社や
お寺に参拝することは
とても効果が高いのです。

神社や寺院は
自然のエネルギーが溢れている
ところに建てられていますし
建築物や絵画、像などによって
芸術的な美しさも
表現されていますから。

だから
私は一粒萬倍ツアーなどを
通してこのことを
伝えようとしているのです。

また「瞑想」を
きちんとできるように
なることも
「直感力」を磨くことに
つながります。

この話は
まだ続きます。

あなたの意見や
コメントも聞かせてくださいね。

今日も1日
あなたが幸せを感じられる1日でありますように。

 

四季を感じることで直感力を磨く

直感力を磨く話の続きです。

将棋や囲碁の天才というのは
この「直観」と「直感」の両方を
持ち合わせている人なんです。

片方だけでは
羽生善治名人や井山裕太名人の
ようにはなれないんです。

昨日も解説したように
直観というのは
経験値がものをいいます。
ですから、
「勘」だけではない
経験に裏付けられた洞察力が
直観ということです。

羽生名人や井山名人は
対戦についての練習だって
かなりやってるんですね。

野球のイチローもそうです。

でも一方
神がかった閃きもないと
勝負には勝てない。

だから世界中の超一流の
アスリートは神に祈ります。

プロ麻雀の伝説の雀士
桜井章一さんは
ほんたうの勝負で勝つためには
「天」とつながった時だ
と言い切ります。

この天とつながっている
という感覚こそ
直感力の最たるものだと思います。

しかし氣をつけなくてはならないのは
「直感」だけをあてにしている
人たちの中には
とんでもないまちがいをしてしまう
人たちもいます。

いわゆる
スピリチュアルなことが好き
という人たちの中に多いのです。

宗教に依存してしまう人にも
多いと思います。

これはどういうことかというと
いわゆる「神」や「スピリット」と
呼ばれる存在の中には
低級霊や動物霊のような
存在もあるということなんです。

その部分につながっているのに
私は偉大な神とつながっている
と勘違いしている人もいます。

以前私は
とある神道関係の会に出席した時に
「スサノオさまを
降臨させることができる人」
という方に会ったことがあります。

ぶるぶるぶる !
と震えたのちに
声も態度も変わって
「我はスサノオである」
と言うのです。

でも、その後にいろいろと
話を聞いていましたが
ほんたうの須佐之男命はこんなこと
言わないんじゃないかなぁ?
と疑問に感じました。

でも、そのことを信じたり
ありがたがっている人たちも
たくさんいるわけです。

私にはその方は
スサノオさまの名前を語った
ニセモノの低級霊じゃないかなぁ?
と感じたのですが。。

では、そういうまちがいを
どうしたら犯さないで済むか?
というと
一言で言うと
「地に足をつけた生活」や
「他者と善い関係で交わえる生活」を
しているかどうかだと思います。

別な見方をします。
自然のエネルギーを常に
感じて生活をしているかどうか。

まともな食生活をしているか
どうかも大切なことだと
私は思います。

いわゆるスピリチュアル好きでも
スナック菓子や
コンビニの食事をしているうちは
肝心の「天」とつながることは
なかなか難しいのではないか?
と、私は思うのです。

天地彌榮塾の塾長であろう
と、決心をしてからの私は
酒、タバコは一切口にせず
保存料や人工調味料、
白い砂糖が入った
食べ物は食べなくなりました。

これは自分の感覚を研ぎ澄ませる
ためにやっていることでもあるのですね。

それと朝に頭から冷水をかぶり
鎮魂方を使って浄化する
ということも欠かせない行の一つです。

とはいっても
私も聖人君子ではありませんから
どうしようもなくハラが立つ時
自分でも抑えられないくらい
むしゃくしゃする時もあります。

そういう時はどうするかというと
身体に悪いとわかっている
コーラを飲んで
人をバンバン殺す
アクション映画を観て
早めに寝ます(笑)
誰とも話をしたり
メールでやりとりもしません。

寝て起きるとスッキリしてます(笑)

普通の人はそこまでは
しなくても善いと想いますが
自然を自分の生活に取り入れていくこと
人工的な生活を少しずつ減らしていくことは
するとよいんじゃないかな?
と思います。

コーラを飲んで
アクション映画を観るのは
毒をもって毒を打ち消すような
方法ですね。
かわいい毒ですけど(笑)

でも最近は
人をバンバン殺す映画を観ても
あまり嬉しくならなくなってきて
しまいました。
これは困ったことです(笑)

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

そういう観点で考えると
昔からの日本人は
実に自然と一体になって
生活してきたかがわかります。

四季折々の「節句」
これは季節の移り変わりに
備わったエネルギーを
自らの体の中に取り込むための
儀式でもあるのです。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

ちなみに「節句」は
一年間に五回あるのをご存知ですか?

一月七日は「人日(じんじつ)」といい
七草の節句と言います。

三月三日は「上巳(じょうし)」といい
桃の節句、雛祭りと言います。

五月五日は「端午(たんご)」といい
菖蒲(しょうぶ)の節句と言います。

七月七日は「七夕(しちせき)」または
「乞巧奠(きっこうでん)」といい
たなばたの節句と言います。
笹の節句でもあります。

九月九日は「重陽(ちょうよう)」といい
菊の節句と言います。

これら五つの季節の
変わり目に使われるのは
すべて日本独自のハーブを
使ったものなのです。
桃は葉がハーブになるんですよ。
ハーブとは生活に役立つ
薬草のことなんですね。

このように
古くからの日本は生活の中で
自然と融合するための
知恵や生活習慣があったのです。

それを継承しているのが
神社なのですが
そのことを知らない人が
どんどん増えてきました。

なぜ私が
神社のことを伝えようとしているのか?
このことに理由があるからなのです。

自然とのつながりが重要であること。

一見便利なようにみえて
なんでもコンビニで手に入ったり
シーズンとは関係なく
野菜や果物を食べられる
というのは
ほんたうは
自然のリズムに逆らい
自分の中の体内時計を
狂わせることになると
私は思います。

 

 

天と地が繋がる生命科学

直感力を磨くためには
自然との一体化が必要だと
話をしました。

今日はこのことについて
さらに詳しく話をしましょう。

私たち人間の本質は
霊魂と肉体でできている。

これは神道や様々な宗教で
認識している事実です。

世界最先端の量子物理学の
立場をとる科学者の中では
「仏教科学」と称して
科学的なアプローチから
精神世界の謎を
解き明かす分野がありますが
こでも
「霊魂」と「肉体」が
私たちの本質である
という認識は基礎的な認識です。

オカルトや
怪しい宗教ではなく
最先端の科学で
証明されはじめたことです。

肉体を持つものを
動かしているところに
生命があるのですが
この生命は
地球上にいる限りは
宇宙の天体の動きの影響を受けます。

一番みじかなのは太陽と月です。
または北斗七星を代表とする
星たちです。

世界中の神々は
この太陽や月や星を
元にした神が圧倒的に多いのです。

日本の最高神と言われている
天照大神は太陽の化身です。

太陽神は海外にもいて
エジプトの太陽神は「ラー(Ra)」と
言いますが世界中の太陽神を
数えると100種類近く存在します。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

神の話ではなく
物理的、科学的事実を教えましょう。

満月の日は
大地が21センチが浮き上がります。
文字通り、21センチも
地面の高さが変わるのです。
地球全体が空気を膨らませた
風船のように膨張するのです。
硬い大地が膨張する
というのは不思議な感覚ですね。

広島の厳島神社では
満月の日には3メートルも潮が引いて
今まで海中に沈んでいたとろに
道が出来、地面を歩いて渡れます。

一番大きな変化があるところでは
カナダのある湾では
潮の満ち引きの差が
15メートルにもなるそうです。

満月の日はこれだけの
エネルギーを受けるので
海底ではサンゴが産卵をします。

ウミガメはわざわざこの時に
砂浜に上がってきて
卵を産むのです。

昔から伝説で言われている
狼男が強くなるのも満月です。

満月の日は
実際に氣が狂う人が
世界中で増える時ともいいます。

これほど自然の力は
人間や地上にいる
あらゆる生命に影響を与えています。

満月だけではありません。
今はちょうど春になってきましたが
春という時期も
変わり目の時期なので
氣が狂う人も多くなります。

昔はストリーキングという
露出狂が出たのも春でした。

花見をしながら
はめをはずしたくなるのは
こういう影響もあるのだと思います。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

この動きを元に
古代中国でも西洋でも
占星術というものが生まれました。

占いというと迷信のように
思う人もいるかもしれませんが
莫大なる情報に裏付けられた
統計学と捉えた方が正確だと思います。

また
「マヤ暦」
「13の暦」
と呼ばれる古代マヤの叡智
によってほんたうの意味での
カレンダーを駆使する方法もあります。
古代マヤでは一つの季節のタームを
「バクトゥン」と呼び
5125年の一つの周期があると
認識していました。
このバクトゥンがすでに
新しいバクトゥンに移行しています。

つまり
私たちは本来は
この自然の動き
自然界に宿る不思議なエネルギーの
影響、恩恵を受けているのが
事実なのですが、
現代の日本人はこのことに
鈍感になりすぎていると思います。

古神道には様々な
秘術が存在しますが
この月の運行を活用した
願いを叶えるための術なども
あるのです。

今日、お伝えしたかったのは
このように自然界の力を
きちんと自分の肉体の中に
取り入れていくことが
重要なんだよ
ということなんです。

そのための感覚を
研ぎ澄ませる方法の一つに
「瞑想」という方法を使う
というものがあります。

私は
「13の暦」のことも学びましたし
「古神道」のことも学んでいますが
様々な「瞑想」方法も実践しています。

瞑想はとても優れた
技法であり
自分自身の身体と心を
コントロールすることにも
役立ちますし
「天(宇宙・神)」と
つながることもできます。

でも、このことをきちんと
学ぶ機会がなかなかないのも事実です。

自己流でやると
危険な場合もあります。

なぜなら、先に伝えたように
なんちゃってスサノオさまと
つながってしまう人も出てくるからです。

興味のある人はメッセージくださいね。

 

 

「ほんたうの幸ひ」とは何か?

心が折れるということを経験したことがありますか?
私は、あります。
しかも一度や二度ではなく。

実は私は二度も自殺未遂をしたことがあります。
でも死ななかったからこうして生きていますが
自殺で死ななかったら後は幸せか?
というと、そうではありません。

最初に死ななかった時は宗教によって助けられました。
でも、その宗教も「ほんたうの幸ひ」を教えてくれるものではない
ということがわかり、またしても迷いの道に入りました。

だから私は「宗教」にはたとえそれがどんな宗教だとしても限界があるものだと思っています。
私の理解では、宗教というものは、神の存在を解き明かしつつも、宗教組織というものになった時点で、人間の欲望というバイアスがかかり、真実とは違う力が働いてしまうものだ、と思っています。

ちなみに日本の「神道」「古神道」は宗教ではありません。
神道がなぜ宗教ではない、というのかはまたの機会に話をすることとします。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

私が自殺未遂を経験した後、二度と自殺をしないと決めたことがあります。
私が自殺をしたいと説破つまった時、何を思ったかというと、
「私は生きる価値がない人間だ」と思ったからです。
どうして生きているのかがわからない。
なんのために生きるかわからなくなり、自分はとるに足らない人間で、どうせ生きていても何のためらもならない、と思ったからです。だったら、こんなに苦しい思いをするくらいなら死んでしまえ、と思ったからです。

でも、それが間違いであったことに氣がつきました。
自分が死のうと密かに思っていたのに、それを知らない母は、私の誕生日のために、手作りのぬいぐるみをつくって渡してくれたのです。
高校二年生の時です。
高校二年生の男の子にぬいぐるみ??
当時の私はすでにぬいぐるみをもらっても喜ぶような年頃ではありません。
とてもこっけいなことだと、ふいぐるみを手にしながら思いました。
でも、母にとっては、小さい男の子と同じ感覚だったのでしょう。無邪気にあなたが喜ぶと思ってつくったよ、と言って渡されました。
当時テレビで流行っていたトッポジィジョというとぼけた顔をしたネズミのぬいぐるみでした。なぜ、そんなぬいぐるみをつくってくれたのかは、わかりません。私はトッポジィジョを好きだったわけでもないのですし。

当時の母は、父の仕事を手伝って日々朝早くから夜遅くまで仕事仕事の連日で、休みなんかないことは知っていました。そのぬいぐるみは、お世辞にも素晴らしい出来栄えのものではありませんでしたが、そんな状態なのに、ぬいぐるみをつくってくれていたことに驚きました。

その、ぬいぐるみを受け取って、私は部屋に帰って泣きました。ふとんをかぶって号泣しました。
私は生きる価値なんかないかもしれない。でも、この母だけは、私が死んだら悲しむだろう。だから、母さんだけは悲しませてはいけない。そう氣づいて泣きました。
また泣いているうちに、なんでこのぬいぐるみをつくったんだろう? と不思議に思いました。泣いているうちに、おかしくなって、泣き笑いになりました。
母さん、あなたは私がこんなに苦しんでいるのに、氣づかず、別に好きだと言ったこともないのに、トッポジィジョのぬいぐるもをつくってくれたんですね。とぼけた母ですね。と。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

人の心が折れる時とは、自分は誰からも必要とされていない、と感じた時だと思います。

または、自分がこの人が好きだ、もしくはこの人は私の大切な人だと信じていた人に裏切られた、と思った時でしょう。

私は、母は私のことを愛してくれている。ということをはっきりと認識をしてから、自殺だけはしてはならない、と自分に言い聞かせました。
でも、人間って、欲深いもので、自分を必要としているのが、母だけでは満足できないものなんですね。
もっと、自分を必要としている人が欲しいものみたいです。

次に私が味わった絶望は、自殺はしてはならないと知った後に、愛する妻から離婚を言い渡された時でした。
自分は離婚はしたくはなかったけれど、彼女の幸せを考えた時、自分の意に反してでも離婚をしてあげなくてはいけないと思ったので、離婚届にハンコを押しました。
でもその後、自殺はできなかったかわりに、心が壊れ、抜け殻になりました。
仕事もなにも手がつかなくなりました。

自殺をしたいと思うくらいに苦しいのに、自殺すらできない時は、もっと苦しいものです。
それで、どうなったかというと、酒浸りになりました。

辛いから苦しいから、それを忘れるために酒を飲んで酔っ払って眠る。
でもそんな睡眠は、ほんたうの睡眠ではありません。
寝ているようにみえるけれど、カラダとココロのほんたうの安息はないものです。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

今では、そんなことをたくさん体験したので、「ほんたうの幸ひ」とは何かを探求することが、自分の生きる道になりました。ライフワークといえます。

その過程の中で、古神道に道を見出したというわけです。
そのおかげがあって「天地彌榮塾(あめつちいやさかじゅく)」という私塾、学校をはじめました。
ですから、天地彌榮塾は、神社のことや、日本の神様のことや、古神道を教える学校でもありますが、その本質は、神道や日本のことも教えますが、仏教における教えについても教えます。そして一番の目的は「ほんたうの幸ひ」とは何か? を学ぶための学校です。

今年の春から新しく入塾してくれた生徒さんと、先日、食事をしながら話をしました。
まだ若い20代のご夫婦です。夫婦二人でに入塾してくれました。

その時に、お酒が多少入ったこともあって、最後に本音を話てくださいました。
「ほんたうは入塾をするのにお金もかかるし、どうしようかと悩んでいました。でも、その頃に夫婦でとても困ったことがあって、大きな危機がありました。その時に話をし合った時に、この難局を相談できる、助けてくれるとしたら、まるさんしかいないんじゃないか? ということを、同時に口から出ました。
だから、天地彌榮塾に入塾しました。」
と、いう話を聞きました。

涙が出ました。
ありがとう。と、頭を下げました。
こうして、私を信頼して来てくれた方がいる。
ほんたうに、ありがたくて頭が下がりました。
このように私を信じて来てくれた人たちを、がっかりさせたり、失望させてはならない。
と、あらためて、自分に誓いました。

かつて、自分が人から裏切られたと思った時に傷ついたことを、自分が他人にしてはならない、ということを、今さらながらですが、少しわかるようになりました。

私は、聖人君子ではありません。それどころか、いたらないところだらけの人間です。まちがいをたくさん犯します。私自身が氣づいていないけれど、もしかしたら誰かを傷つけていることがあるかもしれません。
ですから、驕りたかぶることなく、他者からの注意に耳を傾け、注意深く生きていかなくてはと思っています。

そして、この世の中が少しでも「善循環」な世の中になるための努力をしていきます。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

いつも、長文の投稿を読んでくださってありがとうございます。

なにか、私にできることがあったら、私に聞きたいことなどがあったらコメントかメッセージくださいね。

 

ABOUTこの記事をかいた人

郷右近丸彦プロフィール 郷右近 丸彦(ごううこん まるひこ) 株式会社スピリッツ・ザ・ウォーター代表取締役 天地彌榮塾(あめつちいやさかじゅく)塾長 NPO法人サスティナブル・コミュニティ研究所 理事・主任研究員 1959年生まれ 職業・プランナー、プロデューサー、企画コンサルタント。 東京国際大学卒業後、メーカー、マスコミ業界、テレビ事業会社を経て独立。 平成9年9月9日に銀河鉄道999を走らせる「銀河鉄道999フェスティバル」、鳥取県境港市のテーマパーク「ゲゲゲの妖怪楽園」、環境浄化せっけん「善玉バイオ洗剤《浄(JOE)》」など数々の社会現象として話題となるイベント、事業、商品開発などを企画プロデュースする。日本を明るく元気にする「感動プランナー」を育成し、事業プロデュースをする感動創造プロデューサーとして活躍。解決が難しい課題を、わかり安く親しみやすい切り口からアプローチ、話題づくりにつなげることが評判となり、一部上場会社の企画顧問、様々な企業コンサルティングを行う。 現在は「ほんたうの幸ひ」とは何か?をテーマに「天のルール」と「地のルール」を教える「天地彌榮塾(あめつちいやさかじゅく)」の塾長として活躍中。全国の神社を案内しながら、古神道にのっとった神社参拝方法や日本人の本質、大和魂とは何かを教えている。 その他役職 NPO法人サスティナブル・コミュニティ研究所 理事 主任研究員 趣味 書家。映画、舞台、能、絵画、メディアアートなどの芸術鑑賞 https://www.facebook.com/gogo.ukon