日本人の多くは「無宗教」の人だと言われています。
日本人の多くの人は海外旅行をした時に「あなたは何の宗教を信じていますか?」「あなたが信じる神さまはどんな神さまですか?」と尋ねられた時、
「私は特に宗教には属していません」「神さまを信じていないわけではないけれど、特定の神さまはいません」と答えてしまいます。
このような答えに、特にキリスト教圏に住む人々からは驚かれると共に、野蛮人のような目で見られてしまうことが少なくありません。
世界の常識は、特定の神さまを信じることで「規律が守られる」「神さまの元で文化がつくられる」と認識されているからです。
では、日本人はほんたうに神さまを信じていないのでしょうか? 実はそうではありません。
現在の日本人がこの様な意識になっているのは、二つの原因が考えられます。
一つは、「本来日本は宗教を超えた神道の元に精神が成り立っていたのを、GHQの神道指令によって、考えない様にされてしまったため」。
そして、
もう一つは「神道の本義は宗教組織を超えたところにあるために、入信の儀式をしないため。」なのです。
このことについて、解説しましょう。
宗教とは何か? という定義
には諸説ありますが、宗教学の一つの定義として、このようなルールがあります。
宗教とは三つの要素から成り立っているものとされています。
(一)人間の理解を超えた超状能力を持つ存在があることを肯定する。
この存在を、主に「神」と呼ぶ。
(二)この存在が集まる場所がある。
信じる神の種類によって、場所の名前は異なり、神社、寺院、教会、ムスク等と呼ばれる。また屋根のない携帯では、ストーンサークル、神木といったものもある。
(三)やってはならないNOTのルールがあることを明文化した戒律がある。
同時に、この戒律と共に入信の儀式がある。
世界的に有名なのは、旧約聖書に登場するモーセの十戒であり、これは石板にルールが刻まれているとされている。
すると、宗教(神)を信じるかどうかという判断を迫られた時に儀式を伴い、本人にはっきりとした意識づけを行うことがなされる。
また、この時点で組織に属するということが起きるので、周囲からのサポートもあり、自分は◎◎教の信者である、という意識がはっきりする。
日本の神道には、このルールのうち、三番目のルールがないのです。
だから、日本人は、自分が神道の神を信じている者であるという自己認識を持たないのです。
なぜ、日本の神道が、この三番目のルールをもっていないかというと、
三番目のルールをつくったとたんに人間の我欲が入り込み、
組織運営の理屈で神さまへの信仰という
純粋な意識が阻害される可能性がある、
ということを古代から判っていたからなのです。
そのために、古来から神道の重要事項は
「重要なものは全て口伝で伝える」
「言挙げをしない
(不用意に言葉を発しない。
言ったことを覆さない。
言葉に頼らない)」
というルールが同時存在するのです。
この不文律の、暗黙のルールは、日本の精神教育が口伝えで日本の各地域の隅々まで浸透をしていました。
だから、そのためにコンビニよりはるかに多い神社があったのです。
ところが、昭和20年に発令された「神道指令」によって全ての神社への参拝ルールが破壊されてしまい、
かつ、「神はいない」というような刷り込みを国民全員に普及されてしまったのです。
そのため、神社という施設は何のためにある施設なのかが、あいまいなままに、
今日まで来ており、神社とはお願いごとをするためにある施設であるという程度の認識になってしまっているのですね。
でも、日本人が無意識のうちに、神道の神、日本に代々から伝わる神さまを信じているというエピソードがあります。
2011年に起きた東日本大震災では震災被害に遭いながらも、
救援物資をもらうのに行儀よく列を組んで並んで待つ姿が世界にYoutubeで配信されました。
この現象は世界の人々にとっては驚きと称賛を浴びたのですが、当の日本人にとっては当たり前のことでしかありませんでした。
なぜ、このような行動を日本人がとるかというと、なになにをしてはにらないというルールブックがなくとも、
人間としてしてはならないこと、してしまったら恥ずべきことをほとんどの国民が理解しているからです。
このことは、疑いもしないことです。
例えば、神社の鳥居に立ちションをかける人は日本人には絶対にいない、と言ってよいでしょう。
飼い犬を散歩に連れて歩いていたとしても、犬にすらその行為をさせることはないでしょう。
しかし、日本人以外の人ではどうでしょう? もしかして、鳥居に立ちションをしてしまう人がいるかもしれません。
それは、その人が、鳥居、神社というのは神聖な場所であると同時に、
不敬なことをしたら恐ろしいことが起きる、というこを知らないためです。
また、明治時代の憲法には「神道は宗教にはあらず」ということが明文化されていました。
どういうことかというと、
仏教、他の宗教とは一線を画した遥かに高い位置にある精神的土台にあるということを示していたのです。
日本が大東亜戦争に負けた時、戦争を起こしたのは天皇(神)を信じたために行った軍国主義にある、
と後にレッテルを貼られてしまった影響がここにあります。
昭和天皇が戦後行ったことに「私は神ではありません。人間です。」という人間宣言がありました。
これは、GHQの影響下において発表せざる負えなかったことだと思います。
もちろん、昭和天皇は科学的な観点から言えば、人間であるのは当然です。
しかし、天皇陛下という存在は、日々の生活、そして行っていらっしゃる行為と、
それを支える責任は、事実を知れば知るほど、おおよそ普通の人間が耐えられるレベルのものではないことがわかります。
天皇陛下とは、天照大神をはじめ、八百万の神様に日夜、「日本国民が誰一人として例外なく、
ほんたうの幸ひであるように、願い、祈る」存在です。
その儀式を絶え間なく一日たりとも欠かさずにやり遂げることが第一義とされてる存在です。
ボクは神道家ですから、それらの事柄をいろいろ知っている訳なのですが、
もし自分が天皇陛下のような立場の生活をせよ、とされた場合、一日程度しかもたないだろう、と推察します。
それほど、厳しく過酷な重責の元で生きていらっしゃるお方が天皇という存在なのです。
ですから、その御苦労、御心を慮った時、日本人の魂としては、素直に頭を下げてしまうのだと思います。
それが自然に判ってしまう。というのが日本人のメンタリティーである、と思います。